今回から二回に分けて、日本刀の変革史について見ていきましょう。
我が国の刀剣は古代において既に相当発達をしていたのであります。名刀の名としては、畏れ多くも三種神宝の、天叢の御剣を始め、天之尾羽張、大蛇之麁正、部之御霊御剣などという著名なる剣名が残されてあります。
太刀の種類としては、十握剣、八握剣などの名があり、これは五指をもって計った寸法なのであると思います。
また外装上より名づけられたものに、頭椎太刀を始め、圭頭、円頭、方頭、環頭などの種類があります。
鍛冶神または刀工としての名工も多かったのであったと思いますが、何分にも現存する刀身は殆んど土中より発掘されたものが多く、錆朽ちていて何も判らぬものばかりであります。
それに後世の如く、自己の作銘を刀身に刻まなかったので、何という名前の刀工がいたのか皆目知ることが出来ないのであります。
僅かに、古くは天目一箇神、天之真浦、奈良朝初期頃は八十平、川上部などの名が史上に散見するのみであります。
極めて古い神代の剣にも、支那または朝鮮から渡来したものがあるのでありますが、応神天皇御宇頃になるとドンドンその土地から移住をする刀匠が増加したのであります。
当時はその土地の方が鉄山も多く、冶金術も発達していたらしく、その頃の我が日本の鍛刀界は我が国古来らの造刀法を行っている刀工を倭鍛部と呼び、この渡来した刀工を韓鍛部と称しておりましたら、史実によりますと韓鍛部の方が重要されていたらしいのであります。
奈良朝初期に至りまして、この二流がようやく同化して奈良朝式直刀が製作され始めたのであります。この方式の太刀がやがて世界無比の日本刀を造らんとする萌芽であったのであります。
文武天皇の大宝元年に発せられた大宝律令により、その以降の刀工はその製作刀に自己の作銘を刻むべく命じられましたのが今日の在銘刀の起源であったのであります。
この頃に存在したといわれる著名の刀工に天国というのがあります。この天国をもって旧来の刀剣研究社会では本朝刀匠の始祖といわれていたのでありました。ところが最近の進んだ研究によると、この天国が果たして実在した刀工だったのか、あるいは架空の人物か、または数人の刀工に限って与えられた名誉称号であるのかということについて種々の議論が戦わせられていて、未だ確説が成っていないのであります。
奈良朝終了と共に我々が、上古刀と称する刀剣の歴史を終ります。
平安朝の始めに坂上田村麻呂の大規模の東征戦が行われて、この大戦の結果当然行われたであろうと思える武器の改革、あるいは補充によるために全国各地に急激に刀鍛冶の数が増加したと思えるのであります。
この時代存在の鍛冶なりと推定される日本刀最古の在銘の現存刀に伯耆国安綱及びその子である真守があります。
そして、天慶の乱前夜には全国隈なく分布された刀匠は、ことごとく我々が世界無比として誇る純然たる日本刀を造っていたのであります。それらの中で、山城系には三条小鍛冶宗近、五条国永、大和には千手院の一族、陸奥には舞草一族、備前には友成、正恒などを主とする古備前鍛冶、備中の古青江、筑後の三池光世、薩摩波平一族等は現存する作品もあり、時代も古く刀匠としての技量も抜群でありまして、最も著名なるものであります。
我が国刀剣製作の技術は、鎌倉時代に至り驚異すべき躍進振りを示しました。まさに日本刀の黄金時代で、この時代を境として以前は技術未熟、以降は技術退歩したと申せます。
何故この時代急激に躍進したか。
一、 源平の大争覇戦による何万という大軍の武器補充の必要からと、実戦の経験による改良が行われた事。
一、 後鳥羽上皇が刀剣に非常な御趣味があらせられて、御躬自ら槌をとられての御親作も遊ばされたり、あるいは刀匠に位階を賜うなどの破格の御優待を遊ばされた事。
などなのでありますが、更に鎌倉時代の末期における大国難、すなわち文永、弘安の両度始めて外敵に襲われた元寇戦が重大なる関係があったのであります。
一、 上下一致緊張した非常時気分によって豪壮な太刀が造られた。
一、 旗鼓堂々隊伍整然とした元軍の武器と戦術に対しての対抗策として、日本軍の武器の改良が行われた。
過ぎた日の元寇戦において初めて外国兵と闘った多くの武将兵達によって、鎌倉にもたらされた貴重な実戦の体験談は、我方の兵器の劣勢と痛感して、これを改良せんとして苦心をしたであろう。当時者すなわち刀鍛冶達の仕事の上に、いかほどに有益であったかは想像に難くありません。
丁度その頃の鎌倉の刀匠達は、それよりも以前、北条義時、泰時の時代に覇府鎌倉を目指して来住した備前国福岡一文字助真や同三朗国宗、山城の粟田口国綱などの師弟門葉の人々であります。
その中で断然一頭地を抜いていたのが、雪の下に住んだという正宗でありましたので、自然と正宗を中心としたその一門の人々の手によって着々と改良が断行されたのであります。その改良された刀剣がすなわち後世において相州伝と名付けられた豪壮華美なる造刀法の産物なのであります。
相州伝が完成をされた頃から、時代は南北朝の争乱時代となります。北条氏の滅亡によって一度成った建武の中興は程なく足利氏反してついに七十八年の永きに渡る、南北両朝に分かれての全国的大争乱となったのであります。
このため武士は益々勇武となりまして、好んで大太刀を使用する傾向を生じたのであります。
太平記、梅松論、増鏡など当時の状況を記した文献などに徴しましても、事実長大な太刀を使用したことを知ることが出来ます。豪壮なる相州伝の造刀法が歓迎されたのも当然であります。
(NHK「ラヂオ・テキスト 刀剣講座」より。)