日本刀の形態研究(十三)
日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について
第九節 正清、安代時代(中新刀後期)
寛文、延宝の新刀盛期は貞享の頃まで続くのですが、ここを界として急激な衰亡を見せるのです。先に江戸と大坂とが鍛刀界の二大中心として夫々個性を発揮したのが元禄以降に至ると俄かに衰頽の勢にかき消された様な状態になるのです。この事は泰平の浸透の漸く極点に達せんとする姿に他ならないという事が出来るでしょう。
徳川幕府は武士を中心として形成され、武士が社会の中核をなす事によって秩序が保たれているのです。武士の本質はあくまで戦場にあるべきで、為政者としての徳川幕府にあっては常に戦を誘発することが心構えとされなくてはならなかったのです。是は武士の本質たるべき性格と相反するものであるといわなくてはなりません。故に武士の嗜みである武事は出来なかったのですが、それと同時に戦乱を醸すが如き疑いある行為は抑圧されなくてはならないのです。徳川時代に居城の修築恣なる武備の充実、徒党を組む事私の婚姻等が諸大名により戒められるところであったのもかかる事情に基ずくのです。平和と武士とは互いに矛盾する対立の中に徳川氏の治世が経過していくのです。寛文期の刀剣が平和時代に隆盛を極めたのも武士の本質的なものが未だ忘れられず優位を占むるところに来たものであり、この時代の衰微は平和が武士的性格を押しのけたのであるという事が出来ます。極端な言い方をすればここに武士不要の時代が出現したのだという事が出来ます。
○寛文、延宝時代
虎徹一門が気を吐いた江戸にも元禄以後は良工なく僅かに近江守継平、法城寺国正、小笠原長旨等の活躍を見る位で至って淋しい状態です。又助廣、眞改の二大刀工によって江戸と対立した大坂しても伊勢守国輝や一竿子忠綱等位があるのみで同じく衰頽を極めています。前期の著名工はその余栄を保っていますが、一般の不振は思いやられます。忠綱、国輝、継平等の没年不明なのも晩年に遭遇する鍛刀衰微のためでしょう。
忠綱の作品の如きは最早刀剣というよりは一種の工芸品という感じを起こさせます。濃厚な彫刻、濤乱刃全て平和の影響を如実に表現しているものです。そのようなものであればこそ辛くも存在を続けたのでして、刀工の便命に忠実なものは真に悲境に立たねばならなかった事はいうまでもありません。
しかしここに注目すべきは八代将軍吉宗の治世に於いて一時刀鍛冶の復興を見たことです。吉宗の政治は全て東照公家康の古に帰る事を以て理想としたのですから、武備の弛緩を戒め泰平の華美に流れる生活を刷新して、武士の面目を保たんと努力したのです。この気運と共に刀鍛冶の奨励も思立たれたと見えて、衰微に陥った全国に刀鍛冶の調査を命じ、名工の聞こえあるものを江戸に召した刀剣を鍛えたのです。この光栄に浴したものは主水正正清、一平安代、近江守久道、伊賀守金道(三代)、信国重包、武蔵太郎安国等です。
この選に洩れたものの中には空しく死去したり老齢にて召しに応じられぬさぞかし悲憤の刀工もあった事と思います。
元禄より実歴に至る時代の刀剣は極めて少ないものですが、その中享保年号の作品が割合多いのは、吉宗将軍の奨励によるものと見えます。刀工系団によって見れば夫々連綿たる家系を誇っているにも拘らず作品といえば享保時代を除くと殆ど僅かしか残っていません。
彼の加州の非人清光は非凡の切味の故に有名であるとされ、それにまつわる挿話にも拘らず事実は前田家救済の非人小屋に入ったという没落ぶりであったのです。その如きは最極端なる一例ですが、他にも幾多の刀工が糊口に窮して悲惨な状態に陥った事は想像に難しくありません。
今享保時代の鍛冶について考えてみる時今まで知られなかった主水正正清、一平安代など薩摩鍛冶の名が見えている事が注目されます。
薩摩はいうまでもなく島津家の領地でして、そこは関ヶ原に西軍に興して敗れたにも拘らず、西海の僻地なると強大なる実力に対して徳川氏も強圧を加える事をせず、馴致政策を取ったため特殊区別の如き感があったのです。代々他国人を入国させず厳重に封鎖主義を取ったため徳川時代全体を通じて固有の伝統を保持したかの如くです。
鍛刀の歴史は美濃の若狭守氏房の門より出た備後守氏房に始まるとされていますが、作品の我々に見られるのは伊豆守正房(寛永)が最も古い様です。その作風は大乱又は小乱烈しい出来にて飛騨守氏房の如き出来です。三代目正房は主水正正清の師といわれていますが、やはり荒沸付きの大乱などが多く見られます。
要するに薩摩鍛冶は代々その風を受け継ぐものでして、独自の相州伝といってよいものです。思うに慶長期の相州伝全盛は薩摩に伝えられそのままに保有されたと見られます。新々刀の元平、正幸もなおこの作風を以て終始一貫しているのです。薩摩の地は西日本の一隅にあって時流に影響される事少なく、固く伝統の法を墨守していましたから、享保時代の如き他国に於いて既に鍛冶の衰微する時代にもよく造刀を続けたのでしょう。又この事の背後には島津家の保護があったのは勿論です。関ヶ原の戦以来薩摩は徳川幕府に対して一敵国を形成していたので泰平の世と雖も島津家は将武の気風を緩める事はなかったのです。刀鍛冶もかかることから必然的に保護されたと思われます。しかし何といっても正清、安代の存在は薩摩鍛冶のため万丈の気を吐くものといってよく、日本刀の不振時代も僅かに二人の出現によって光彩を放つものといい得るのです。
享保の復興も将軍吉宗の死と共に頓挫して今度は以前にも増して衰亡を見るに至ったのです。恰も享保の復興は消えようとする燈火の最後の一瞬の燃え盛りにも似て永続性は持たなかったのです。
最早槍は袋を掃わず鎧は櫃に収まって不被顧刀、剣も全く無用の道具と化したかの如き衰頽時代は享保以後の状況です。刀工の惨状推して知るべく、この時代の作品の見られないのもその不振時代を如実に物語るものです。
しかし我国が長らく鎖国の夢をむさぼっている中に西洋諸国の状勢は急転回をなし、西欧人の東洋に於ける活動に漸く著しく我国も西に北にその脅威を蒙る事になったのです。その頃より泰平の夢は次第に破れて国の内外物情騒然として、ここに幕末史の展開を見るのです。
そして日本刀は新たに復興を喚ぶに至り、新々刀期の創まり来る事となったのです。
○安代(一平)「享保ー薩摩」
刀、脇差あり地鉄板目肌澄み地沸つく。刃文直刃は一見肥前刀の如くだが、荒沸つき華やかです。
○安国(武蔵太郎)「享保ー武蔵」
刀、脇差あり、地鉄杢目肌立ち気味。刃文大乱沸崩れるもの又は尋常な中直刃。
○正房(惣右衛門)「享保ー薩摩」
刀、脇差あり、地鉄無地風に錬れ、刃文大乱れ荒沸つき烈しい出来。
○正清(主水正)「享保ー薩摩」
刀、脇差あり、作刀身幅広く、地鉄無地風に板目、刃文互の目乱れ、荒沸つき烈しい出来です。
○重包(信国)「享保ー筑前」
刀、脇差、互の目華やかなもの及び肥前刀の如き中直刃がある、又享保頃によく見る間隔の開いた互の目刃もある。
○忠吉(近江守)「宝暦ー肥前」
刀、脇差あり、作刀姿よく、地鉄小杢目刃文匂締りたる小丁子、足長く入るもの焼巾深いものもある、又は中直刃尋常なものもある。帽子は又刃締るもの及び沸付深いものと両様ある。
○長旨(小笠原)「享保ー武蔵」
刀、脇差など姿優しいもの多く、地鉄板目柾交じり、刃文は細直刃又は直喰違刃です。
(日本刀要覧より。)