日本刀の形態研究(九)
日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について
第五節 盛光、康光時代(応永古刀)
元中九年吉野朝廷の後亀山天皇は京都に還御ならせられ、神器を後小松院に伝え給うたので建武中輿以来七十余年に亘って相続いた戦乱もここに終局をつげ再び平和時代の訪れを見たのです。これより足利幕府の基礎は漸く固く義満、義持、義教三代の間は、応永に大内義弘の乱、永享の関東管領持氏の乱及嘉吉の赤松満祐の乱など諸将の謀反によって戦乱の勃発を見たのですが、何れも武力を以て鎮圧し、実質的に全国統一の権力を確立し得た時代でした。ここに於いて刀剣界は前代の如く絶間なき戦乱による需要の著しい時代ではなくやや沈滞の状態といわなくてはなりません。従って刀剣の作風に現れる一般的特徴としては、平和の色濃き形相を窺い得るのです。
日本刀の歴史はその創生期なる武士階級の興隆に始まって以来終始戦乱と共に進歩改革が見られた事は今まで説いたところでした。しかしたとえ平和の時代の到来があるにしても、武士なるものが社会上の有力な地位を占めている限り日本刀も常に関心を失う事はありえないのです。戦乱は常に刀剣の改革に貢献するところではありますが、平和の時代も影響を興るものです。それは刀剣の製作が不活発になるという様な点のみではなく作風の上に平和の印象を自ずから宿するものである事に注目しなくてはなりません。ここに於いて私は刃文の中に現れる戦乱時代の特徴と平和時代のそれとが如何に異なるかについて、極めて概略ではありますが考えてみたいと思います。
○刃文に現れる戦時と平和の特徴
刀剣の生命は勿論切れるという事にあり、それと共に折れない事こそ不可欠の条件でなくてはなりません。刀工の仕事はこのために良鉄を鍛錬によって得、焼入れによって刃鋼を形成するのです。そこに自ら刃文なるものが出現するのですが、刃文はまた精密な研磨のない所には考えられない事は度々説いたところです。今日我々は極めて古い時代の作品をも全て入念な磨ぎの操作を経てこれに対するのですが、数多くの作品に接しそれ等を総合比較して見る時は自ら一定の類似点を発見するのであります。即ち同じ時代のものは自ら共通な作風が存し、異なる時代は対照的であるように、戦時の刃文は平和時のそれに比べて特徴を有するのでありますが、戦乱の時代はそれぞれ時を距つるも相互に類似なる傾向を発見できるのです。尚また平和時に於いても同様の事が見られるのはいうまでもありません。
かかる点に着目して、刃文における戦時の傾向と平和時のそれを比較するならば、第一に戦時においては刃文は単純になり、平和時は複雑になるという事が出来ます。戦時にあっては刀剣は実用という事に、即ちよく切れて折れたり曲がったりしないという点に主要目的がかけられるのです。実用という一点に集中されて作られる刃文は自ら単純とならざるを得ないのです。古備前時代の如き、備前正恒、友成の作も伯耆安綱の作も小乱沸付きの作風にて殆ど変わらないのです。また青江の作品と来国俊等におけるも某所に大いなる作風の相違を考える事は出来ません。これは古い時代刃文の意識などはなく、単純に刀の片側に刃鋼を作るという目的で為された操作の結果が自ら刃文の類同となって表現されたと考えられます。
この事柄はなお古刀と新刀との全体の比較においてよく理解する事が出来ます。年代的に見るならば古刀期は新刀期よりも遥かに長くあるにも拘らず、その刃文の多種多様さからいえば到底新刀期に及びません。ですから古刀は五ヶ伝を以て容易に分類されるのです。作風の変化の多様は近世期の特徴ではありますが、戦時と平和時との比較において前者が単純固定化するに対し後者の多様さに至る事はいいえるのです。
次に戦時においては刃文は小規模なるに対して、平和時にあっては概して大規模になる風があるのも注意するべきです。刃文模様の大小は刀の大小によるのが常ですが、なお平和時と戦乱時代について右の如くいいえると思います。吉野朝時代の作品の刃文の大規模なのは太刀、長巻きの刃長大なるものであったからです。
然るに一文字末期の丁子が大規模になったのは、必ずしも華やかさを意図したものではありません。それは鋭利な実感を現す所の努力であったと見られるのですが、かかる傾向が無制限に伸び行くのはやはり平和な時代に考えられるのでして、一文字末期の大丁子はやや実用を遠ざかりつつあったという事が出来ます。されば元冠に直面するや備前鍛冶は忽ち直丁子を以てこれに応じたのです。
実用的な刃文は必然的小規模になり行くのはこれまた自然の勢で、長光、景光の直丁子、兼光一門の小互の目の如きその典型的なものという事が出来ます。また後の祐定、兼元の如きも又このよき例だという事が出来ます。刃文の単純、淋しいという事は必ずしも技術的退歩を意味するのではなく、実用を主とするものは必ず小模様になるのが、従来の作品に徹して知られるのです。世上ややともすると華やかな刃文のみを賞美する傾きのあるのは平和時の観点に基ずく鑑賞の態度といわなくてはなりません。
次に刃文なる意識が既に平和時の所産で、地鉄、刃文の認識は応永以後次第に昂ぶったものです。それは実用以上の研磨によって起こるもので、戦時には到底思い及ばざる所です。足利義満の時代宇都宮入道という者、刀剣の目利、故実に委しく、献上物の上作、可然物など定めたといわれてますが、これと相匹敵する如くこの時代の戦記物語狂言に刀剣の焼刃、地鉄などの事が見えているのは、平和の到来と共にそれ等が漸く関心の的となって来たと見るべきです。新に初期慶長の頃に至ると共に刃文の中の沸匂の働きに着目しそれによって復元を企てるに至り、さらに刃文の形状帽子などに至るまで詳しく分類するなど後世鑑定の特徴とされる細密な諸特徴まで観察されるに至ったのです。
さらにこれ等の諸特徴を知悉して意識的に復元せんとしたのが新刀鍛冶の努力であったといいえられましょう。慶長以来この機運は相州伝に対して集中せられ、天正頃の古刀末期の作風は俄かに一変する事となったのです。世に新刀が古刀と異なって独特な沸匂の深い刃文を示すのは慶長以後鉄山において、鋼が作られるようになって刀匠も利便のためにこれを用いるに至ったためであると説かれています。それも確かに主要なる原因には違いありませんが、なおそれのみに尽きるものという事が出来ないものがあります。応仁以来の戦乱が秀吉という一世の英傑の出現によって平定された事が刀剣界に強く影響しているのを知らなくてはなりません。研磨の精密を加えるのは秀吉以来であり、鑑定道の次第に発達し来るのもやはり慶長以後という事が出来ます。ここに刃文が問題とされ、その結果相州伝的作風が時代の嗜好に投じたものです。この相州伝なるものも結局刃文の変化ある大規模なるを主眼とするもので平和時代の所産に相応しいものです。
(日本刀要覧より。)