日本刀の形態研究(十一)
日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について
第七節 国廣、忠吉、康継時代(新刀)
慶長年間は日本刀の歴史あって以来最大の変換期です。日本刀が古来戦乱を契機として種々作風上の変換を重ね、これに於いて新しき時代を形成してきた既に述べた所でも明らかですが、しかし慶長年間はこれ等何れの時代にも増して重大な意義を有するものといわなくてはなりません。それは以後平和時代の到来と共に新刀の出現があり、日本刀の歴史は二大別せられて古刀期、新刀期と区分されるからです。
この事は研究の立場よりは種々不備な点を含むものですが、古来よりの日本刀の発展を大観する時先以て慶長年間に着目する事は最意味ある事といわなくてはなりません。全て現存する作品に付いて考え及ぶ時慶長以後の作品はそれ以前のものと作風の上に於いて截然たる区別が存するのです。この事は刀剣の趣味を以て少し研究を積んだものには一見直ちに鑑別出来る程ですが、この著しい両者の特徴は一体如何なる理由に基くものでしょうか。
○新刀の名称と意義
慶長以後より宝暦前後までの時代の作品を以て新刀とするのが常です。即ち水心子一派の活躍と共に来る所謂新々刀の以前を以て新刀なるものの時代としています。
新刀なる称呼が神田白龍子の選述にかかる新刀銘尽に載る事は人々の既にいう如くです。しかし白龍子のいう新刀なるものは正しく慶長以後の所謂新刀をいうものではありますが、それは古刀に対する独自の存在であるとする如き明確な意識を以て使用したものではありません。その序言をなす所に付いてみると「中古安綱宗近正宗義弘の類各々萬紀に載せ、深くその徳を称えその功を現す。故にその術に携わる者古往今来その眞偽を弁じ、その善不善を正す。この古伝の詳なるものあるに依ってなり、粤近世武威往古に秀で諸侯東西に多く、武士南北に群す。これを以て五畿七道剣を鍛えるもの雷同して少しとせず。然るに作上中下三品あり。鉄錬不錬不同あり。或いは用いて鈍鋭の損益あり、或いは奸偽の作ありて酷だ人心を惑わす。士たるもの知らざるべけんや」とて慶長以後の刀剣の従来人々の多く用いる所にも拘らずその研究なきを遺憾とし、新刀鍛冶に対する解説を興へ、奸智の輩の所作に成る偽物などに惑わされざる様指針をなさんために編まれた趣を明らかにしています。この書は新刀の名匠について述べてはいますがこれが古刀と本質において異なるものである事には及んでいません。しかしながら新刀銘尽の刊行は享保年間であり、慶長以来既に幾多の良工輩出し、世上一般には広く愛好を得ているのに、伝統の古刀編重の風の強いのに対する憤懣の自ら凝結したものとみられます。ですので神田白龍子の如き刀剣道の権威者が新刀の認識を強く要求している所に意義深いものがあるとしなくてはなりません。
この事は鎌田魚妙において更に一歩を進められ、彼は独自の見地に立って新刀の標買を行っています。即ちその著新刀弁疑にあっては白龍子の初めて新刀を取り上げ称揚しつつ自らはその功を継承して、匂沸を中心に作品の検討を行ったもので、ここに至って新刀は実質的に古刀に対立する地位が興えられたとすべきです。魚妙によれば匂いと沸が刀剣の生命であって名刀の必ず具備すべき条件である事に注目したので「沸は鉄の火に焼かれて沸きたる沫の心也、匂は水火に遇不及の過なくして鉄の精神全く備わりしところに現われたる金気の本然金生水の水にして剣の魂也」とてかかる立前より津田助廣、井上眞改を最賞賛し、なお一般に大坂刀を高く買っているのです。
この態度の必ずしも妥当でない事は勿論にて、後に水心子を始め人々の論難するところではありますが、新刀を独自の立場より認めた事は確かに彼も具眼の士である事実を物語っているのです。
水心子は刀剣実用論に於いて匂沸無用と唱えるのですが、これは匂沸を茎にそれのみに没頭して鍛刀する事に対する警告としては確かに傾聴すべきですが、その言葉のままに匂沸を無用とするならば甚だ笑うべき議論といわなくてはなりません。目利者は鍛錬の業に疎い故と嘲る自らも刀剣に対する無知を暴露するものと言うべきです。何故ならば程よい鍛錬によって得られた鉄に焼入れすれば必ず匂沸は発生するものだからです。ここに於いて鎌田魚妙が匂沸に着目する事自身は誤りであったという事は出来ません。ただその見た目に美しい匂や沸即ち刃文の鑑賞に溺れすぎた点に水心子等の非難を蒙る所以があったのです。しかしこれは魚妙一人の罪ではなく時代一般がかかる弊害に陥っていた事を示すもので、水心子一派の実用的見地も幕末の急な世相の反映であると思われます。即ち水心子の主張は直接には鎌田流の精神の漲る世上の嗜好に対する反対に他ならないというべきです。
これと共に水心子にあっては新刀全体に対する嫌らない感情を持っていたことが考えられ、この方は彼の研究に於いて慶長以来古鍛法の廃れたためによるものと考えられたのです。「古刀と新刀とは鋼の製法大いに異なり。先古の鍛冶は銑を求めて自身鋼に吹きて刀剣を作り、後世の鍛冶は鉄山にて製したる鋼を求めて用いる。詳しくは伝書にも記す如く古の鍛冶の自信製したる鋼と近代鉄山にて吹き出す鋼とは製法の別なる故鉄性大いに異なる也、依って慶長以来の作は新刀と号す」というのです。
水心子はここに古刀と新刀とは製法を異にする実質的な相違の存在する事を説いて自らは古刀の昔に帰らん事を理想としたものの如くにても「古刀の法を以て造りたるものは古刀に替る事なし」の信念を以て鍛刀に努めたものです。その様に新刀なるものの概念は新刀の反対者によって最明確なる概念を興えられたというべきです。
慶長を境として初めて新刀期の作品は古刀期のそれと截然と分かれる特徴を示していますが、この所は水心子のいう如く両者の製法の相違のみによるものでしょうか。
私はここに両者の拠って立つ社会状態を考えねばならぬと思うのです。社会的環境の刀剣に及ぼす影響という如きものを考えてみるならば古刀は戦乱期の所産であり、新刀は平和時代のそれであろうとする事が出来ます。戦争と平和こそ古刀と新刀を特徴づける因由と考えられます。
戦時の刀剣は、実用に集中される時に用いる単一性によって作風は単純類型化するに対し、平和時に於いては複雑多岐の作風を表現するのです。
故に古刀期はその長い時代の発展を経ているにも拘らず自ら共通性が著しくその特徴が時代別によって一括できる研究方法が可能であるのに、新刀期の場合は作者の個性や他無鍛冶の影響は極めて顕著に見られるのです。加えて平和の時代に於ける交通の利便、交換の発達等その他あらゆる条件より鍛冶の移動、交渉が著しい為に同無の作品必ずしも同じ傾向を持ちません。故に新刀期は自然独自の研究方法によらなくてはなりません。
本書にては新刀期を国廣忠吉康継時代、虎徹助廣眞改時代、正清安代時代、正秀直胤清麿時代と四つの時代区分によって時代的な傾向を窺うと共に各時代にあっては大坂、肥前、薩摩という如き地域的な特殊性に着目する事にも努めました。新刀期は徳川時代の平和の裡にあって刀剣の変換もやはり一般文化と同じ傾向を追うもので決して刀剣のみ孤立の社会的環境から生れるものではありません。この事は古刀の場合とて同様でありますが特に新刀の場合はこれ等の事実を作品に明瞭に示されているのです。
造込み、地鉄、刃文、茎等全て明らかな証拠を豊富に残存している点に古刀の場合よりも刀剣それのみの研究によって社会生活の反映を窺い得るものがあります。
故に新刀の場合は自らとその様な事情が古刀の場合よりは一層考慮されなくてはなりません。
(日本刀要覧より。)